慶應大学SFCの環境情報学部(2000 – 2004)
こちらは慶應SFCの時の成績表です。
文系少年がアメリカ理系大学院でPh.Dをとりシリコンバレーのプログラマになったきっかけという記事でも書いたように、自分はもともと文系で、大学3年生のときにコンピュータサイエンスの方向にシフトすることを決意しました。
上記の成績表でも、『大学1年と2年であった2000年と2001年』と『大学3年と4年であった2002年と2003年』は、履修している科目の種類が違うのがわかると思います。
こちらは慶應SFCの時の成績表です。
文系少年がアメリカ理系大学院でPh.Dをとりシリコンバレーのプログラマになったきっかけという記事でも書いたように、自分はもともと文系で、大学3年生のときにコンピュータサイエンスの方向にシフトすることを決意しました。
上記の成績表でも、『大学1年と2年であった2000年と2001年』と『大学3年と4年であった2002年と2003年』は、履修している科目の種類が違うのがわかると思います。 続きを読む
ひさしぶりにアメリカで車のない生活をしているので、歩いたり公共交通を利用しています。
舗装のクオリティが低いので雨が降ると歩道は水たまりだらけです。
バスや電車の椅子の上に靴のまま足をのせるので、公共交通の社内もあまりきれいではありません。 続きを読む
サンフランシスコ空港で日本行きの飛行機を待っている間ほっとしていました。
とにかく終わってよかったと思いました(いろんな意味で)。
新しいことがたくさんありました。
新しい人たちにたくさん会ったのが一番の要因かなと思います。
引きこもりタイプは人と会うと消耗しがちです。
寮生活というのは人生で初めてでした。
地元の小中学校などと同様、不特定多数との共同生活は難しいです。
似たような環境の大学院生だけの寮だったらまだよかったかもしれませんが、自分のいたところは事前に聞いていた話と異なり学部生も混ざっていました。
また交換留学生が多いのも難しかったです。
彼らはしいて言ってしまえば長期観光旅行で、必死に今いる環境にしがみつくどころか、学校に行く必要もないので、普通の学生と温度差がありました。
授業の密度が濃いというのが日本の大学と比べての一番の特徴だ思います。
日本の大学では、教科書を買わされてもその一部をつまみぐいするだけのような印象でした。
下手すると全く使わない教科書を買わされたりします。
日本の大学はそもそも授業時間が短すぎるので、そんなに内容の濃い授業はできないと思います。
アメリカでは教科書を一冊買ったら、その内容を一学期で全てやるのでなかなか激しいなと思いました。
自分の学術的な強みはComputational Geometryという分野で、Computational Geometry: Algorithms and Applicationsという有名な教科書があるのですが、400ページ近くあるその本を一学期ですべてカバーしたのには驚きました。
つまりたった実質4か月でゼロからエキスパートレベルまでもっていくことを試みているので、必然的に授業の密度が濃くなります。
日本の授業では、学期中はだた先生の話を聞いていて、学期の最後にテストをやって終わりというものも多かったですが、アメリカではHomeworkが多く、期末試験だけでなく中間試験が2回も行われたりするなど、常にスケジュールに追われます。
自分はダメだとわりと諦めるタイプなので、もう無理となった時にはやらなかったりもしたのですが、自分以外の他の人はちゃんとやっていたのですごいなと思いました。
ただ一つその時にしらなかった裏技があります。
それはHomeworkやプロジェクトの締め切りというのは日本だと厳守の感がありますが、アメリカでは先生との交渉で締め切りを引き延ばせるということです。
この辺りは日本人にはなかなか慣れない感覚だと思います。
同期の中国人も、彼はとても頭がよかったですが、さすがに一学期目は大変だったらしく、最終プロジェクトの締め切りを交渉して数週間延長してもらっていたので、そういうやり方もあるんだなと思いました。
締め切りの感覚の違いというのは文化的なズレがあります。
就職してからも大体プロジェクトの目標期日が決まると、それに合わせて担当個所を完成させているのは自分だけという事がよくありました。
無駄に日本の感覚はまじめすぎるのかもしれません。
おそらく50歳くらいになると大学院生の授業だけをやっていればいいので、授業内容も世の中の流れが進むにつれて更新されるのでそれなりに楽しそうですが、40代以下の先生たちは、内容がほぼ万年変わらないような学部生の授業を受け持たされるので、あれはあれでそれなりに大変そうです。
しかし一度授業を作ってしまえば何回も使いまわせるので、ルーチンワークが嫌でなければ2回目以降は楽なのかもしれません。
アメリカに来る前は、アメリカの大学では教授は研究に専念出来て、授業は授業だけをする先生が別にいると聞いたこともありましたが、少なくともBerkeleyはそうではありませんでした。
Lecturerと呼ばれる、授業だけしかいない人もいるにはいますがかなりレアです。
日本の大学の先生は、研究がメインで授業はしょうがなくやっているイメージがあります。
しかし実際大学教授の給料は授業をやることの対価で、研究をするかどうかは本人の勝手なので、逆な感じもします。
Berkeleyの成績のつけ方にはLetter gradesとPass/No passという2つの方法がありました。
Letter gradesがいわゆるA、B、Cの評価で、GPAに影響する授業の取り方です。
Pass/No passは文字通り、合格が不合格かのみです。つまりLetter gradesのC以上だったらPassです。
PrelimやQualifying Examを受ける条件、そしてPh.D取得条件にも、必要な授業を履修するだけでなく、最低GPAの基準もあります。
したがって学期の途中でついていけないと思ったら、Letter gradesからPass/No passに切り替えるか、最悪の場合その授業の履修をキャンセルするという方法があります。
日本の大学が他の国の大学と異なっていることに、成績をあまり気にしないことがありますが、アメリカを含む他の国の学生はそれに慣れているので、彼らはAをとれないとなると、上記のような方法で高いGPAをキープしようと努力します。
学生のうちはGPAを高くキープするというのは必要悪です。
しかし一度卒業してしまえばだれも学生時代の成績を知りません。
この点に関しては、日本の方がちょっと進んでいるのかもしれません。
結局学校を卒業しても勉強し続ける人とそうでない人がいて、学生であった期間というのは人生が進むにつれて薄まっていくので、インパクトが小さくなっていきます。
無理やり勉強させられるのが、日本の場合は高校まで、アメリカでは大学院卒業まで。
その後に継続できるかどうかは結局その人次第。
それだけの話だと思います。
私の通っていた慶應大学SFCの学部では、各学期ごとに10科目まで授業を履修することができました。
それに対してUC Berkeleyの機械工学部の学部生は3科目か、がんばって4科目です。
これはBerkeleyがSFCに比べてヌルいというわけではなく、授業の密度と強度が違うのが原因です。
アメリカの理工系の大学で学期に10科目も履修したら破綻します。
私は社会全体で見れば勉強ができる方ですが、できる人たちの集団に入れられると大したことはないというのは高校生の時点で自覚していたので、大学入学以降は人よりも時間をかけて根性でなんとかするという通用を取ってきました。
大学院入学1年目で、ついにこの方法が通用しなくなりました。
大学院では、各学期に2つの授業を取るとかなりきつい、3つとると睡眠時間を削ってもついていくのがやっとという状態でした。
UC Berkeleyの工学系のPh.Dを取得するまでに、2回テストに合格する必要があります。
そのどちらかに落ちると基本的には退学で、博士課程コースに合格しても修士号だけで卒業です[ref]参考:新井紀子教授の学歴詐称の件 [/ref]。
Berkeleyではpreliminary exam (prelim)と呼ばれていた、1つ目のテストは純粋なペーパーテストでした。
2つ目はQualifying Examと呼ばれる、Ph.D candidateになるための4人の教授による口頭試験です。
入学して1年以内にまずprelimに合格するのが、博士課程に進学した大学院生の最初のタスクです。
こちらによると、今は以下のうちの自分の専門分野のみで合格すればいいようです。
1. CONTROLS
2. DESIGN
3. DYNAMICS
4. FLUID MECHANICS
5. HEAT TRANSFER
6. MATERIALS
7. SOLID MECHANICS
8. THERMODYNAMICS
自分が通っていた時は1つでなく、3つパスしなければいけなかったので、Manufacturing(製造技術)とMaterials(材料力学)とDynamics(動力学)を受けました。(Manufacturingのテストはなくなってしまったようですね。)
問題は機械工学のバックグラウンドがないまま入学したので、このprelimの準備のための学部生の授業と大学院生の授業を同時に履修しなければならなかったことです。
結果的に1学期目は5科目を履修することになり破綻しました。
久々にがんばってもダメだったなと思いました。
先ほど書いたように、3科目がせいぜい限界なのでしょうがないです。
2学期目はprelimの準備のためだけに大学院生向けの授業は履修しなかったので時間的に余裕があり研究も少しできました。
なぜ1学期目もそうしなかったかというと、大学院生向けの授業は数年に1度しか開講されず、そのチャンスを逃せないためです。
そういう授業が運の悪いことに私の1学期目に2つ偶然開講されてたわけです。
共にCSの授業で、二人とも私の博士論文の審査をしてくれるような近しい人だったので、本当に運の悪いタイミングもあるものだと思います。
学部1,2年生が受ける授業をlower-divisionコース、学部3,4年生が受ける授業をupper-divisionコースと呼びます。
いわゆる専門はupper-divisionコースで、lower-divisionコースは例えば数学や物理など、工学系の学生であれば所属する学科に問わず履修するようなコースになっています。
prelimの準備のため、私は2つのlower-divisionコースも1学期目に聴講していました。
これは今振り返ると時間を無駄にした一つの要因だと考えています。
その理由は、lower-divisionコースで教えられるような知識が私には欠けていたとはいえ、さすがにこれらのコースで教えられている内容は、一度大学を卒業した人間にとっては簡単すぎるという事実です。
したがって、もし私と似たような状況の方がいたら、アドバイスとしてはlower-divisionコースは教科書だけ買って、必要に応じてそれをめくればいいと思います。
授業に出るのは時間がもったいないです。
prelimに合格するためのupper-divisionコースや大学院生向けの授業を理解するための前提知識として、もちろんlower-divisionコースの知識が必要になることがあるのですが、そこからボトムアップで勉強するのは時間がない人には効率が悪いのです。
やりたいことが研究しかないなど、時間が有り余っている人はいいですが、やりたいことに追われていて時間が足りない私のような人にとっては、勉強は基礎を積み上げるよりも最初からトップダウンでやる方が効率がいいです。
アメリカ理系大学院に留学した直後の話です。
プログラミングや、科学や数学は世界共通なので、そこに関して心配はありませんでした。
そこで初めて渡米するとなると、本質的ではなくても一番障害となるのが英語だと思います。
また会話が難しいのは英語の問題だと勘違いしがちですが、習慣や文化の違いの理解不足によるコミュニケーションの難しさもあります(「How are you?」「 I am fine. Thank you.」という会話のフェイク感)。
まずアメリカに到着した初っ端から、まず入国審査官が何を言っているのかわかりませんでした。
初体験だというのもありますが、一つ確信をもって難しいのは仕方ないと思えるのは、なぜかサンフランシスコ国際空港の入国審査官は英語ネイティブの人が極めてまれで、みなとても訛りの強い英語をしゃべります。
研究室の仲間やクラスメートも何を言っているのか最初はわかりませんでした。
クラスメートだけでなく、その辺の人とランダムに話して会話がわかるようになるには3年くらいかかったような気がします。
だけど授業の内容は最初から理解できました。
おそらくかなりフォーマルな話し方をするからだと思います。
だからそこの部分は心配する必要はないと思います。
プロジェクトや実験などで他の学生と一緒に話をしなければいけないときは、最初は本当にどうしようもなかったです。
もはやなにがわからないのもわからないくらいわかりませんでした。
誇張抜きで言っていることの90%はわからない感じです。
自分でどうやってわかるようになったのか記憶がないので、残念ですがアドバイスはできないです。
でもいつかわかるようになるのは間違いないです。
おそらく日常会話の英語を聞きなれているかどうかだと思います。
しかし私が24歳だった2006年の頃と違い、今はyoutubeで世界中の日常がのぞける時代ですから、あまり心配する必要はないのかもしれません。
大学院でのアメリカ留学はコスパ最高という記事を書きました。
学費は免除され、最初の1年目の手取りは月額1200ドルくらいだったと思います。
この金額は割と生きるのに最低限ぐらいの感じで、一人でアパートを借りたら赤字という感じでした。
最初の1年目は学校の寮で、おそらく毎月200ドルくらいの赤字だったと思います。
最初に5000ドルもって渡米したので、それをやや切り崩しながら生活しました。
これは14年前、2006年の物価基準なので、いまは給料も家賃も上がっています。
こちらに2019年現在のUC Berkeleyの給料表がありました。
機械工学の大学院生はこちらによると、最初は月給4,463ドル、preliminary examというペーパー試験に合格すると月給4,769ドル、最後にPh.D candidateになるためのQualifying Examという口頭試験に合格すると月給4,981ドルだそうです。
学期中は法律で外国人は週に20時間までしか働けないので、実際の支給額はこの半分になります。
つまり1年目は月給2,230ドル、手取りだとおそらく2,000ドル強くらいになると思います。
ざっとみたところ現在のBerkeleyの家賃はStudioでも最低1500ドルほどするようなので、額面上は14年前と比べて70%ほど上がっていますが、家賃も同じくらい上がっており、カツカツなのは変わらないようです。(当時の私の家賃はstudioで985ドルでした。)
1年過ぎてpreliminary examに合格すれば、200ドルくらい手取りが上がるので生活が回るようになると思います。
3年目に入りQualifying Examに合格すれば、毎月100ドルくらい黒字になるという計算になります。
カツカツの暮らしで5年も過ごすのはきついと感じるかもしれませんが、夏休み中は外国人は週に20時間までしか働けないという制約がなくなるので、指導教官に予算があり、かつ寛大な人ならばフルタイム扱いになります。
私は卒業まで毎年夏休みはフルタイム扱いにしてもらえたので(つまり2020年現在ならば手取りで月4,000ドルくらいもらえる)、それでわりと余裕をもって暮らせました。
ちなみにBerkeleyは州立大学のせいか給料はかなり安い方だそうです。(テキサスのように石油で潤っている地域や、私立大学だともう少し恵まれているかもしれません。)
またエンジニアリング系の学生、とくにコンピュータサイエンスの学生ならば、お金の話をするならば夏休みにインターンをした方が収入的にはもっとよくなります。
特に研究者になりたいのではなく、私のように就職したい人はインターンの方が将来の就職につながりやすいのでお勧めです。
こちらにインターンの月給に関する記事がありました。
2019年の相場は、最高のFacebookで月額8,000ドル、その他メジャーなtech companyを挙げると、Amazonが7,725ドル、Googleが7,500ドル、Microsoftが7,250ドル、Uberが7,167ドル、Appleが6,667ドル、Intelが5,000ドルといった感じのようです。
インターンなのに日本のサラリーマンよりも給料が高そうですね。
インターンはビザが簡単に出るので、日本の大学院に通っているが副収入が欲しいという方もこれらのインターンに応募してみるといいと思います。
お金を抜きにしても、いい経験になるはずです。
アメリカ大学院出願から合格までについて書きました。
合格の通知をもらったのは3月の末、実際の渡米は7月の末だったので4か月くらいありました。
この2006年7月の渡米から2016年9月まで、10年以上の間ほぼアメリカに行きっぱなしでした。
別に日本に絶対に戻れないわけではないですが、自分の場合はアメリカ大学院留学は就職と同じだったので、『日本に滞在する=収入がゼロになる』わけで、長く日本に滞在するチャンスはありませんでした。
だいたい年に1回、2週間ほど日本に年末年始に帰るか帰らないかといった感じでした。
アメリカ理系大学院在学中の反省点に書いたようにもう少しうまくやれたかもしれませんが、今振りかえれば20代から30代前半までは自分が社会でやっていけるか自信がなかったので、必死に目の前のことをやるしかなかったんだと思います。
またサラリーマンになると一段と日本には戻りづらくなります。
まずビザ的に、学生ビザ(F1)から就労ビザ(H1B)への切り替え時や、グリーンカード取得時など、ビザ切り替え中はアメリカ国外に出ないように言われます。
またギークなプログラマが好きな場所で好きな時間に働くというシリコンバレーのイメージは既に昔話になっていて、これだけソフトウェア産業が巨大なビジネスになってしまうと、どうしても人は組織的に管理されてしまいます。
オンラインよりもオフラインでのコミュニケーションに流行りはシフトしていて、リモートワークもなくなり、個人のスペースも取り払われていっています[ref]シリコンバレーは伝統的な日本企業っぽくなっていって、日本の伝統的企業は逆にリモートワーク推進の流れなのでおもしろいですね。[/ref]。
もし自由にやりたいのならば、Google、Facebookのような(もはや伝統的)大企業は避けて、数人でやっているようなスタートアップをお勧めします。
話がそれましたが、一度アメリカに行ってある程度頑張ると決めたならば日本に戻ってくることは簡単ではなくなるので、やりたいことのうち日本でしかやれないことを考えて渡米前にやっておくことをおすすめします。
自分の場合はやりたいバイトがあったので、それをこの時やっておけばよかったなと後悔しています。
未成年は不自由ですが、20歳になると年齢でできないことはなくなります。
しかしそれは永遠ではなく35歳を過ぎるとそのボーナスタイムは終わります。
留学して卒業後に日本に帰ってくるつもりならばいいですが、私のように渡米の目的が就職の場合は10年くらいは日本を離れることになり、帰ってきたら30歳を過ぎているので、そのつもりで人生計画をするべきだと思います。
まずプログラミングのバイトをしていました。
1年間英語の勉強ばかりしていたので、リハビリと称してやっていました。
自転車の乗り方と一緒で、プログラミングはやらないと忘れるものではないことを学びました。
バイトが週3日くらいで、他の空いている時間は物理の勉強をしていた気がしますが、あまり記憶に残っていないのでそこまで熱心にやってなかったのかもしれません。
UC Berkeleyの機械工学の場合、入学して1年後(修士を持っている人は半年後)にpreliminary examというペーパー試験に合格する必要があるのですが、正当なエンジニアリング教育を受けていない自分を指導教官は心配して、日本にいる間に少し勉強しておきなさいと言われた気がします。
今振り返れば、やらなければいけないのは物理の中の力学だったのですが、波とかあまり関係ない分野の教科書を読んでいた気がします。
そのくらい機械工学とはどんな分野かよくわかってない状態だったというわけで、今振り返れば本当に合格もらえて幸運だったなと思います。
とはいっても、そんな私でも先ほど書いたpreliminary examは普通に合格した中で、機械工学の修士を持ちながら入学してきてpreliminary examに合格できなかった人もたくさんいます。
つまりアメリカの大学院のセレクションシステムは学力における公平なゲームではなく、少なくとも勉強のできる人が必ずしも選ばれているわけではないというのは確かなようです。
いまでは渡米するのはふらっと近所に出かけるの同じくらいに気楽になっていまいましたが、当時はすごくドキドキしていたような気がします。
アメリカがどういうところかまったくわからなかったので、現地で買えるようなシャンプーやリンスまでスーツケースに詰めて持っていったのを覚えています。
現地に二週間だけホテルを予約しておいて、その滞在中に家を探そうと思っていました。
最終的には応募していた学校の寮に入れることになったので、そこに最初の1年間は住むことになりました。
昨日のランチは1000円でインドカレー食べ放題でした。
インドカレーだけでなく、タイ料理のグリーンカレーや中華のあんかけ焼きそば、サラダバーもありました。
どれもとてもおいしかったです。
今日のランチはしゃぶしゃぶ1000円で食べ放題でした。
お肉に加えて野菜もドリンクもアイスクリームも食べ放題でした。
とてもおいしかったです。
最低時給で1時間働くだけで昔の王様よりもいいものが食べられます。
食べ物だけでなく物も安くて質がいいです。
ネットの世界は常に世の中に対する不満の声が溢れていますが、目の前にこれだけの豊かさがあって何が不満なんだろう?と考えてみました。
食べ物はとりあえず安い、洋服も安い、でも家だけは高いです。
しばしばシリコンバレーの生活費の高さが話題になりますが、実際のところ高いのは家賃だけで、肉も野菜もフルーツも、そしてハーゲンダッツもスターバックスもシリコンバレーの方がずっと安いです。
レストランが高いという人もいますが、内容を比較すれば高くありません。日本の500円以下で食べられる食事は極端に炭水化物に偏っていて、質の悪い油が使われているのがわかります[ref]個人商店ならば安くていいところもありますが、チェーンだと800円くらいにボーダーラインがある気がします。やよい軒はだめだけど大戸屋はいいですね。[/ref]。
最近強く思うのは一人暮らしは金銭的に効率が悪いということです。
家族の仲が良くて、実家を出る必要がなければ最高だと思います。
実家は地方でも、東京で兄弟姉妹で一緒に住んでいるパターンもいいですね。
水木しげるさんの自伝的漫画が好きで、最近改めて読んでいるのですが、子供の頃にはわからなかった面白い発見がたくさんあります。
戦後すぐの日本が貧しい頃に、兄の嫁とその子供、自分、弟の4人で暮らしていたという話がありました。(お兄さんはB級戦犯で服役していたのでいなかった。)
私の実家はお店をやっていたのですが、新潟出身の祖母は、自分の妹が東京に来る際には、お店の手伝いをさせることで一緒に住まわせていたといっていたのを思い出しました。
家は高いけれど、昔みたいにお金がないのならば家もシェアすればいいと思いました。
去年は1年間不本意にアメリカで再びサラリーマンをしましたが、もちろんよかったこともたくさんあり、その一つがハウスシェアは意外に楽しいという発見です。
自分がそれまで敬遠していたのは、おそらくシェアというと学校や学校の寮のイメージだったからだと思いますが、ハウスシェアは学校と違って不特定多数との共同生活ではありません。
ハウスシェアや同棲といえば、結婚やカップルがオーソドックスですが、仲のいい友達と一緒に住むのもとてもいいオプションだと思います。(むしろ異性と違って別れにくそうな気がします。)
各人に個室があればプライベートは保たれます。
それぞれが5万円の家を借りるよりも、二人で10万円の家を借りた方がリビングやキッチンも大きくなります。
光熱費やインターネットの費用も分割になります。
気を使わないで一緒に過ごせる友達が一人でもいれば、それはお金を持っているのと同じかそれ以上の価値があることに気が付きました。
特に女性同士のハウスシェアはいいと思うので(実際に女性限定のシェアハウスはたくさんある)、男性の私はうらやましいです。
改めて人柄がいいというのは、仕事ができる以上に大切なことだと思いました。
子供の頃に好きだったことをずっとやればいいという記事以来、中学生の頃からを振り返っています。
アメリカ大学院出願から合格までという記事が最新で、2006年、24歳だったときのことを書きました。
細かく書けばいろいろなことがあるのですが、とりあえず自分が失敗したと思ったことや、事実ではないのにもかかわらず信じ込まされていたせいで損をしたこと、知らなかったせいで失った機会などを中心に書いています。
今後もしばらく現在の時点までのことについて書いていく予定です。
昨年は事故で友人を2人亡くしました。
先日38歳になりましたが、同い年のスポーツ選手は引退し始めています。
体の衰えは間違いなくきていて、自分もいつ死ぬかわかりません。
せっかくなので生きた記録を残しておこうと思います。
そして後悔しないように、今考えていることを書いて頭の整理をしようと思います。
24歳の時に持っていたプランは、アメリカの大学院で博士を取って、年収1000万円でシリコンバレーの企業に就職し、3年働いて33歳でサラリーマンをやめることでした。
そして日本に戻ってミュージシャンになろうと思っていました。
サラリーマンでの目標貯金額は1800万円で、300万円で家を買い、貯金を切り崩しながら年金がもらえるまでの30年間を年50万円で生きていく感じです。
このプランは今でも全然あきらめてないのですが、時間的には5年ビハインドです。
逆に現在の資産額は予定の3倍以上の6000万円ほどになってしまったので、不必要に時間をお金に換えてしまった感はあります。(投資を知ったのも大きい。)
最初の渡米からアメリカには10年間いました。
最初の5年が大学院で、残りの5年間がサラリーマンです。
サラリーマンの当初の予定は3年間だったので、ここで2年間ビハインドになりました。
その理由は仕事がおもしろかったので辞めたくなかったからです。
20代の学生だった頃は、一人で作業をするのが好きで、他の人と仕事をするのは苦手だと思っていましたが、就職してからはみんなで物を作るという事はとても楽しくて、かつ一人で作れない大きなものを作ることができるエキサイティングなことだと知りました。
似たような人間が力を合わせると、1+1は2でなくて3にも4にもなります。
この経験は大学の研究室のサイズだとなかなか味わえないので、自分はあまり大学に長くいることに肯定的ではありません。
楽しかった最後の仕事はVR、もっと具体的にはphotogrammetryで、写真から3Dデータを構築できることを知りとても感動しました。
2018年の夏は個人でもこのプロジェクトをやっていたけど、9月からサラリーマンを再開してからそのまま放ったらかしになっているので、これも再開しなければいけません。
サラリーマンは自分の時間がとられすぎるのです。
(7枚の写真から2018年ワールドカップの大迫選手のゴールを3D化してます。これは完全に幾何と数学だけでやってるのでディープラーニングを使うともっときれいになるはず。)
VRの仕事はアメリカでの2つ目の会社で、最初の会社はIntel(人生で最初で最後の大企業勤め)で、半導体の製造技術のためのComputational Lithographyのソフトウェアを作ってました。
たびたび書いてますが、私の20代は元文系の理系コンプレックスから始まってて、かつソフトウェアがこんなにインパクトがある時代が来るとは2006年ころは思わなかったので、機械工学で大学院にいったり、半導体とかの方がプログラマより格好いいなと思ってました。
しかし今振り返るとあまり楽しくなかったです。
VRを始めてから、やっと10年以上かけて、どのように自分が映るかではなく自分のやりたいことをやるのが一番幸せだという事に気づきました。
やっぱり自分の興味はコンピュータグラフィックスにあって、一概にプログラマといっても、画面に絵が出ないプログラミングは面白いと思えません。
ハードウェアの進化とディープラーニングを含むコンピュータビジョンアルゴリズムの進化により、ここ3年くらいでついにCGもソフトウェア開発のメインストリームにのってきました。
しかしつい最近までのソフトウェア開発の主流は、ワードやエクセル、ウェブ、スマホアプリといった感じで、この手の開発は簡単なのでつまらないです。(一般的にプログラミングやプログラマとしてお金を稼ぐために、コンピュータサイエンスや高校数学とかを知っている必要はなく、感のいい中学生なら十分できるものです。)
話を戻すと、そんな感じでVRの仕事は辞めたくありませんでしたが、先も書いたように既にプランよりも2年ビハインドだったので、とりあえず一回切らなきゃと思い上司と話をしました。
それが2016年の5月くらい34歳の時で、しかしその後自分たちのVRカメラを使ってハリウッドで映画を撮ったりとか、そういう面白い経験ができたりしたので、ズルズルと9月くらいまではいました。
別に転職でやめるわけではなかったので、とりあえず会社に籍を残したままにしろという上司のアドバイスで、leave of absence扱いで日本に戻りました。
34歳のうちに日本に戻りたかったのは、実は日本でやりたいバイトが一つあって、35歳になるとバイトは雇われないと思って急いでいた部分があります。
困ったことに自分はやりたいことが多いのです。(シリコンバレーは田舎過ぎてつまらないという人もいますが、つまらないのは場所ではなくその人の人生だと思います。)
そのバイトはやることが出来ましたが、20歳前後の頃と違って難しかったです。
難しかったというのは、同僚に面倒くさい人がいた場合に、自分が若ければヤバイ人がヤバイとわからないので、社会ってそんなもんかなとある意味受け入れられたと思いますが、年齢を重ねた分だけいろんな人を見ていて、ヤバいやつはヤバいやつだってわかってしまう分、面倒くさいなとシンプルに思ってしまうということです。
20歳前後の子たちは詰められててかわいそうだなと思いながらも、自分が文句言われているときは、1ミリも自分が悪いと思ってないにもかかわらず、「すみません」って神妙な顔をして言える自分の意外な社会性の高さ()を発見したりもしていました。
ちなみにこの経験で、35歳から未経験の人が雇われなくなる理由がわかりました。
自由なシリコンバレーのイメージとは違い、ハードウェア企業のせいかIntelは新卒採用主義で、例外を除いて中途採用はしていませんでした。
それは会社のカルチャーにフィットしない恐れがあるからで、外の世界を知る人間は扱いづらいという考えは洋の東西を問わないようです。
若いとなんでも受け入れてしまいます。
昔の徴兵といえば大体20歳ですが、それは体力があるというのもそうだけど、思想的にもまだ確立していないから使いやすいのだろうと思います。(余談ですがこのビルマ敗戦行記―一兵士の回想はとても面白いです。)
話を戻すと、そういう既にいろんなものを見てきてる自分がバイトの立場で働くのは難しかったわけです。
34歳まではコミュ障は傭兵として生きていけばいいというスタンスでやってきましたが、35歳になってようやく自分がやりたいことがあるならば、雇ってもらうのでなく自分ではじめなければいけないことがわかりました。
面倒くさいけど人を巻き込んでいかなければいけないんだなと感じました。
自分が作りたいものをみんなで作る形にしなくてはいけない。
だから今年からそこを覚悟を決めてやっていこうと思います。
サラリーマンを辞めた後のことを書くと、2016年の9月に日本に戻って、12月まではバイトして、その後はうちのパートナーがワールドトラベラーをやっていたので、それに2か月くらい加わりました。
2017年の2月に戻ってきてから、htmlのcanvasを覚えてマルチプレーヤーのジグソーパズルを作りました。
昔MSNメッセンジャーというLineみたいなアプリがあり、そこにあるマルチプレーヤーのジグソーパズルをパートナーと一緒にやるのが好きだったのですが、MSNメッセンジャーがサービス停止になり、かつ代わりのサービスが見つからなかったので自分で作りました。
2月末には例のleave of absence扱いになっていたVRの会社に戻ってこない?ってしつこく言われていて、リモートでいいならという約束で3か月働きましたが、モチベーションが上がらなく5月には完全に辞めました。
会社は翌年にliquidationになりました。
その後は自分のビジネスというものをやってみたくなり、6月からは先ほどのパズルにアフィリエイトを付けたりして、営業もいろいろやってみました。
わりとがんばれば人が集まることがわかって、売り上げも増えていきましたが、頑張っても月10万円くらいだなって思ったときに、サラリーマンだと簡単に100万円以上もらえてしまうので、お金のために興味のないビジネスをやるのは筋が悪いなと思いました。
能力の高さよりも宣伝力の高さの方が世間には圧倒的にインパクトがあるという記事を書いたこともありますが、自分のやりたいことを実現するためにビジネス的になることは必要ですが、ビジネスが目的になってしまうのは自分にとっては完全に本末転倒でした[ref]お金が欲しいならばシリコンバレーの大企業でのんびりサラリーマンをやってるのが一番です。[/ref]。
それに気づいたのが11月くらいなので、おそらく半年くらいはやっていたのだと思います。
このブログはその年の9月から並行して始めていて、自分の体験をシェアしたいなと思っていた部分と、他の人がどのようなことに興味があるのかというのもビジネスの延長でみられるかなと考えた部分もあります。
一つ学んだことは、興味は細分化していて、いわゆるクラスターが違うと見ている層が違うので、分野が違うといくら宣伝力が高くてもあまり意味がないという事です。
そんなこんなで、やっと会社を辞めてから1年と3か月過ぎた、2017年の年末からCGや音楽をもう一回始めました。
このときもまだいろいろと試行錯誤はしています。
先ほどの写真から3Dもこの時作ったものです。
2018年の5月に1年ぶりにシリコンバレーに行ってきたという記事あります。
ようやくやりたいことができ始めてきたころだったので、正直再びサラリーマンをやる気はなかったです。
ただ熱心に誘ってくれるのを断るのは難しいので、サラリーを吹っ掛けて、さらにうちのパートナーはその時日本にいたのでそれも言い訳にしたのですが、サラリーもパートナーも一緒に雇うというように、全部要求が呑まれたので断れなくなってしまいました。
それで1年間過ごして今年の9月。
それでまた今日まで、また旅してきてる感じです。
34歳で会社を辞めてから、今もですが、ずっといろんなところに住んでました。
旅をしてローカルのおばあさんたちと世間話をするのが好きです。
しかし旅行は楽しいけれど、家がないとプロジェクトは進まないことがわかりました。
やっぱり家は必要です。
とりあえず今月はシアトルに行きますが、日本に戻ってきたらそこに数年間は住むつもりで家を借りようと思います。
旅行はしばらく終わりです。
作ることに集中したいと思います。
お金のためにつまらないことをやらないように注意します。
水木しげる先生のご両親もそう言ってました。
TOEFL対策の経験については先日こちらに書きました。
3か月でTOEFLの基準点をクリアするという目標は果たせませんでしたが、その次の挑戦で無事基準点を超えました。
次はGREの準備です。
こちらでも書きましたが、まずQuantitativeに関しては満点を狙わなくてはいけませんでした。
サンプルテストをやった結果、Quantitativeは最初から満点だったと思います。
本番のテストでは確実に一問間違えたのですが、結果的に満点だったので、全問正解する必要はないようです。
少なくとも日本人の理系の学生ならば全問正解が余裕で可能なレベルの試験です。
ただ最悪問題文の英語が理解できない可能性もあるので、サンプル試験を見て、統計用語などの親しみのない単語はメモしておきました。
Quantitativeが問題ないとなると、GREの準備はVerbalとAnalytical Writingに絞られます。
この2つだけを2か月半くらい集中してやりましたが、結果を言うとほぼ効果はありませんでした。
若干の点数の上昇はそれぞれ見られたものの、焼け石に水的な点数上昇です。
渡米後に友人の韓国人に聞いたところ、それぞれの点数を大きく上げるには半年くらいのトレーニングは必要で、実際にそれ用の効果的なテキストがあるようです。
ちなみにGREのVerbalに関しては、外国人の語学力はTOEFLでチェックしていると私の指導教官が言っていたのと、アメリカ人にもかかわらずVerbalは全然ダメだったと私のパートナーが言っていたのを合わせて、勉強する優先度は低いと思います。
あなたが理系ならば、Verbalを勉強するくらいならば研究をしたり、著名なオープンソースプロジェクトに参加してポートフォリオを作るなりした方が、人生にはもちろん大学院合格のためにも有益ではないかと思います。
TSEは今ではTOEFLの一部となっているスピーキングのテストです。
学校によってはRecommended(Requiredではない)となっていたので、わざわざ受けに行って、悪い点数を律義に提出し、墓穴を掘りました。
現在ではスピーキングはTOEFLの一部なので、真剣に勉強しなければならないものだと思いますが、私は経験していないことなのでこれに関しては何もアドバイスできません。
GRE Subject TestのComputer ScienceもTSEと同様にRecommended(Requiredではない)となっていたので、わざわざ受けに行って、悪い点数を律義に提出し、墓穴を掘りました。
コピペではなく、同じミスを二回繰り返したのです。
この手のRequiredではないテストは、受けてみて点数が良かった時だけ提出してください。
『嘘はついてはいけないが、ネガティブな情報をわざわざ伝える必要はない』が私の伝えたいメッセージです。
余談ですが12月の出願後、3月末までいい連絡を聞かなかった私は、たぶん全部不合格になったと考え、翌年の出願に向けてGRE Subject TestのMathの勉強を始めました。
当時のコンピュータサイエンスの出願書類には、GRE Subject TestのComputer Science(今は存在しない)かMathかPhysicsをRecommendedと書いてあり、Computer Scienceでいい点を取るのは難しいと判断し、次回はMathにしようと思ったからです。
実際にMathはもと文系の学生である私でも満点が狙えるレベルだったので、もし追加的なアピールをしたいと考えている人は、GRE Subject TestのMathでいい点を取り、それを出願書類に含めるのはやってみる価値があるかもしれません。
先ほども書いたように、いい点を取ったときだけ提出です。
GRE Subject TestのMathは一か月も勉強すれば十分だと思います。
一つ厄介だったのが微分方程式を解く公式が覚えられないことでしたが、テストはマークシートなので、それぞれの選択肢を実際に微分してしまえばどれが正解かわかるという抜け穴を発見しました。
記憶が正しければ以下の学科です。
SiggraphというCGで一番有名な学会の、当時自分のやっていたモデリング分野において、過去10年の論文がどの学校から出ているかで決めました。
この順番でたぶん行きたいと思っていたと思います。
上位3つがコンピュータサイエンスではないですが、その理由は昔から私の興味はコンピュータサイエンスというよりは計算科学(Computational science[ref]Computer Scienceと似ているが別物。[/ref])で、理論よりも実際にコンピュータを使って問題をガリガリ解いていくのが好きだからです。
新井紀子教授はAIの専門家ではない 『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』という記事で紹介したデモにも関連しますが、コンピュータサイエンス的に理論的に解けない問題でも、現実的にはなんらかの方法で計算科学では解決しに行きます。
そのような理論的にはダメでもコンピュータを使って近似的に問題を解くための実用的なテクニックが物理や機械工学では頻繁に使われており、意外にそういうものをコンピュータサイエンスの博士号を持っているような人でも知らなかったりします。
結果として3番目のUC Berkeley, Mechanical Engineeringだけから合格通知をもらい、他はダメでした。(Ph.DでなくMasterならばOKと言われた学校はありました。)
聞いた話によると合格者は1月ごろから連絡が行くそうです。
つまりなかなか連絡がこないという事は、あまりいい状況ではないということのようです。
自分は2月に入っても連絡が来なかったので、もう駄目そうだなと思い、GREのMathの勉強を始めていましたが、3月末になってBerkeleyから連絡がきました。
いわゆる補欠合格的なものだったと思います。