人の移動が不自由な時代がやってくる

誰もが社会の破壊者になるという怖さ

COVID-19への対策の概念を読んだ。

不要不急の外出自粛が求められているのは、自分が感染するのを防ぐためというよりは、自分が感染源になるのを避けるためということが分かった。

COVID-19のクラスター源になり感染を社会に広げるのは感染者のごく一部であるが、軽症や無症状の感染者もそのごく一部のクラスター源になりうるのが厄介だ。 続きを読む

中田敦彦のYouTube大学とトンデモ本

新井紀子の『AI vs.教科書が読めない子どもたち』が中田敦彦のYouTube大学で紹介されていた。

オリラジが好きなのでよく見ているけど、以前に彼は【AI・人工知能①】〜AIを知れば未来が見えてくる!〜という動画も上げていて、ニューラルネットワークのドロップアウトについて解説するなど、技術的なことにも少し踏み込んだりしていて内容は割といいものだった。

今回はその真逆の新井紀子の本を取り上げているので、中田さんの YouTube大学は本の中身を他の文献と比較して検証したりして解説するものではなく、書いてあることをそのまま読み上げる番組なんだといまさら気が付いた。 続きを読む

世の中の進化の速度に僕らの学習速度は追いつけない

博士論文の提出

博士論文を書く作業というのが大学院博士課程の一番のハイライトのはずです。

『はずです』と書いたのは、自分の場合は就職が既に決まっていたのでとにかく終わらせたいという気持ちのほうが大きかったです。

他の学部や研究室は知りませんが、私のところはそれまでに書いた論文を並べて、イントロダクションとまとめを書くだけでよかったので、それ自体はそれほど重いものではありませんでした。

私の博士論文のメインパートは3章からなっていて、そのうちの1章目は3学期目に書いてリジェクトされた論文の全面書き直し(これは最終的に2014年に発表された)、2章目は3年目に始めてアクセプトされた論文を、最後の3章目が2章目の発展形(まだ単著としては発表されていない)です。

博士論文は就職が決まった2011年の3月から精力的に書き始めて、提出の12月までほぼ毎日それにかかりっきりでしたが、その大部分は3章目の部分に費やしていたと思います。

問題自体は企業から来たニッチな問題でしたが、最後にとりあえず理論的にはきれいに解けた気がしたので、自己満足しています。

学校によっては博士論文が完成した後も、ディフェンスと呼ばれる口頭試問があって、そこで厳しく審査されたりするようですが、私の在籍していたUC Berkeleyの機械工学では、どちらかというとセレモニー的にプレゼンテーションをして終わりだったので、そこは特に問題なしでした。

こちらが私の博士論文です。

最後の3章目もいつか発表する機会があればいいですね。

 

ポートランドへの引っ越し

当時のメールを見ると、博士論文の提出が12月16日で、一週間後の23日に引っ越しをしています。

16日ぎりぎりまで論文は書いていて、それを出すや否や部屋の片づけと引っ越し準備を始めました。

あまり感傷に浸ったり、別れを惜しんだりする余裕もなく、せわしなく次の場所へ引っ越していった感じです。

大学院時代は最初から最後までただ目の前のことをひたすらこなしていくばかりで、俯瞰的に深く考える時間はなかったです。

就職後も同じことを考えましたが、自分がアメリカ人だったら、休学したり就職してみたりと気分転換もできますが、外国人という弱い立場だとビザの問題もあり、学校で言われるがままになってしまいがちなので難しい日々でした。

 

留学時代を振り返って

留学は最悪のスタートを切ったという記事から、ずっと留学時代を振り返ってきましたが、履修した授業やちょっと研究のことを書いただけでもかなりの量になってしまいました。

生活面についてはまた改めて振り返るかもしれませんが、そもそも語るべきプライベートも大してないかもしれません。

自分はあまり過去を振り返らないほうなのと、既に8年から14年前の話なので正直なところ記憶があいまいです。

昨年末からサラリーマンを離れて時間を作りやすくなったので、またブログを書きはじめました。

1年くらい間が空いていましたが、今でもとてもたくさんの方に見ていただいているようです。

何かお役に立てる情報があれば幸いですし、単純にエンターテイメントとして楽しんでいただけたらそれはそれでありがたいです。

個人的にはずっと忘れていた当時のmixiの日記をたまたま見つけることができてよかったです。

根本的な部分で自分が変わっていないことを発見したのが意外でした。

今回書いたことも、これもまた自分自身の興味として5年後、10年後に読んでみるのを楽しみにしています。

今振り返って、私の大学院生時代は、まだスマホが本格的に普及する以前の時代のせいか、20代という年齢のせいなのか知りませんが、目の前のことに夢中になっているだけでよかった幸せな日々でした。

小学校・中学校・高校・大学と、どんどん難しいことを勉強していくわけですが、その一番先には何があるのかなと子供のころは気になっていました。

大学院に来る前までは、その『一番先の部分』には、がんばっていればいつかたどり着くことができると思っていましたが、実際はそれは止まっている点ではなく自分が勉強するスピードよりも速いスピードで遠くに動いていく点であり、一生たどり着くができないということがわかった5年半でした。

ハードスキル的には学校よりも難しい問題に学校の外では出会わない

理系アメリカ大学院留学11学期目(2011年秋)

11学期目に履修した科目は以下の1科目。(成績表はこちら

  • ME301: Teaching Mechanical Engineering

ついにこの学期が最後です。

やっていたことは博士論文を書くことと、コンピュータグラフィックスの授業のTAです。

この年の3月に就職が突然決まり、仕事開始日が2011年12月26日の月曜日に決まったので、とにかくそれに間に合うように卒業することがゴールでした。

アメリカの大学院では卒業前に就職してしまう人は珍しくありませんが[ref]そしてそのままPh.Dを取らないまま働き続ける人もたくさんいます。[/ref]、自分の場合は就労許可が必要で、その就労許可を得るために就労前に卒業することが必須だったわけです(今更知ったのですが、こちらによると厳密には最低でも1年間在学していればOPTを取得できるようですが、この場合は学期中は1週間に20時間までと就労時間が制限されていてフルタイムで働けないようです。フルタイムで働くにはなんだかんだ卒業が必要そうです)。

ちなみに先ほどのサイトによると、卒業見込み90日前からOPTの申請はできるようです。

自分のようにギリギリで卒業して就職開始ということになってしまった方は、早めの申請をお勧めします。

今振り返ればアメリカは日本と異なり、新卒一括採用、一斉に仕事開始といった文化がないので、学校の勉強しかしてこなかったので社会を知らないまま20代を終えたという記事に書いたように、卒業が間に合いそうもなかったら、会社に仕事開始日を遅らせるように伝えるのが無難だと思います。

よっぽどのことがない限り採用取り消しになることはないと思います。

自分の場合は3月に採用決定、12月に就業というように9か月もギャップがあるケースで、これはアメリカの感覚では珍しく、例外的に長期間待ってもらっていたのでこれ以上引き延ばすのは申し訳ないという気持ちも大きくありました。

繰り返しますが、やっぱり本当に気にしすぎたなと思います。

アメリカで就職したいならば理系大学院で1年で修士を取得してOPTという記事でも書きましたが、とりあえず最終ゴールがPh.Dだろうが、既に日本で修士号を取っていようが、そういうことにかかわらず、アメリカの大学院に入学したら修士号をできるだけ早く取得してしまうのがおすすめです。

OPTが得られることでアメリカで就職というオプションが手に入るかどうかは本当に大きいです。

履修科目と感想

ME301: Teaching Mechanical Engineering

TAをやるかこの授業を履修することが卒業に必須の要件です。

自分はTAをやったのですが、今思えばTAをやること自体は必須ではなかったので、単純に一度経験してみたかったのだと思います。(当時のホームページがまだ残っていました。)

やってみて思ったのが、自分は人前でしゃべること自体はとても好きだということに気づきました。

大学院時代を振り返ると、結局自分をせわしなくしていたのは、給料や学費の出所が指導教官の研究費である以上、その期待にこたえ続けなくてはいけないと考えていたことだと思います。

しかしTAをやることで学費や給料を確保するという方法もあるので(数学・物理などの理学や文系の大学院生はこのケースが多い)、早めにTAをやっておけばよかったなと思います。

しかしアメリカに来たばかりのころは英語に自信がなかったのもありましたが、もう一つ外国人がTAをやるにはTSEという英語のスピーキングの試験[ref]おそらく今のTOEFLのスピーキングパートに相当。[/ref]で基準点以上を取らなくてはいけないという条件があり、それに合格できなかったことを思い出しました。

基準点に達しなくても、用意された英語の授業を同時に履修すればTAをやってもいいことになっていましたが、なんだかんだこれまで振り返ってきたように忙しすぎて授業や研究以外のことを考える心の余裕がありませんでした。

結局その試験には受からないままTAをやっていたので、今思えばそのルールもわりと『とりあえずあるだけ』だったのかもしれません。

私がBerkeleyに出願した一番の理由は、この授業を教えていたJames O’Brienだったのですが、最後の最後で仲良くなれてよかったです。

何も知らないからがむしゃらにやるしかなかった

今は景気がとてもよく仕事が探しやすいというのもありますが、それがなくても今では自分はどこに行ってもそこそこやれるだろうと思えます。

その自信に具体的な根拠があるわけではないですが、例えばスタートアップのコンサルをしたり、社員として企業の面接に行っても、自分だけでなく相手の状況もよくわかるので、あまり緊張もしないですし、いろんな点で自分の素の状態で仕事ができるようになりました。

そういうものは仕事をしていく中でわかっていく、いわゆるソフトスキルが上がったからだと思います。

コンピュータサイエンスや数学等の授業で習った知識や、博士論文を通じて得た論文をサーベイする方法など、ハードスキルに関しては大学や大学院の時のものが今でもベースになっています。

博士課程を卒業して8年が経ちましたが、ハードスキル的な面では、正直学校でやっていたことよりも難しいことに会社の仕事では出会うことはなかなかなく、その点では安心して学校の勉強だけしていても十分に力は磨かれると思います。

今後は就職後の話を書いていこうと思いますが、このブログの本来の主題であるソフトスキルがメインの話になっていくと思います[ref]プログラミング、数学、科学、技術などの話は他のブログやウェブサイトがたくさんあるのでそちらを参照してください(英語のものがおすすめです)。[/ref]。

学校の勉強しかしてこなかったので社会を知らないまま20代を終えた

理系アメリカ大学院留学5回目の夏休み(2011年夏)

最後の夏休みでしたが、急遽就職が決まり年末までの卒業が必須となったので、ひたすら論文を書く毎日でした。

この年の春からネットで婚活を始めていて、この夏休みに日本で実際に会うのを楽しみにしていたのですが、結局日本に戻ることはなかった夏休みでした。

今思えばこの時に日本に戻っておけばよかったと思います。 続きを読む

若さをお金に換えることはできても、お金で過ぎた時間は取り戻せない

理系アメリカ大学院留学10学期目(2011年春)

この学期が大学院最後の1年です。

この学期が5年半11学期の在学中、唯一授業を履修していない学期です。(成績表はこちら

私は5年半で卒業をしたので、他の学生に比べて特別に遅かったというわけではないのですが、たいていの学生は卒業に必要な授業の履修を2年か遅くとも3年で終えてしまうのに対し、先学期まで授業を履修していた自分は常に無駄にせわしなくしていたという記憶でした。

今回この成績表をあらためて見て、授業を履修していない学期が存在していたことにはじめて気がつきました。

成績表にはME290Rを履修していることになっていますが、これは私の指導教官が教えている授業で、既に履修済みの授業なのにもかかわらずなぜか教室で座っているように頼まれただけです。

今思えば授業の履修人数で先生の評価が変わったりするのかもしれませんが、自分にとってはただの時間の無駄なので無視してもよかったかもしれません。(同期の学生は無言の抵抗なのかずっとkindleで本を読んでいました。。)

いずれにしても、アメリカ理系大学院在学中の反省点で書いたように、博士論文執筆以外の卒業要件は早めに終えて気分を楽にしておくのがおすすめです。

 

なんだかんだ楽しかったと思える大学院生時代

アメリカに来た時には24歳でしたが、この時点で29歳になっていました。

今振り返ると人生の一番楽しそうな時期を博士課程に捧げたことになります。

大学院では先生から給料がもらえるとはいえ、月1500ドルという生活費ですべて消えてしまうような額だったのでお金がない20代でしたが、若かったので楽しく過ごしていた気がします。

幸福度とお金の多寡はあまり関係ないようです。

お金はいつでもどうにでもなるものだし、人からもらうこともできますが、若さを買うことはできません。

極端な例ではパパ活のように、若さをお金に換えることはできても、お金を払って過ぎた時間を取り戻すことはできないわけです。

そういうことを20代のころはまだ知りませんでした。

 

2011年春という激動

20代も最後で、ちょうどネットの出会いも多少はオープンになってきたこともあり、婚活を始めました。

ネットでの出会いというのは新鮮で、普段の生活では出会えないような人とお話しできるのがとてもよかったです。

今はなくなってしまいましたがYahoo縁結びや、エキサイト婚活というサイトも使ったこともありますが、自分が見た中ではペアーズが一番良かったです。

ペアーズは男性のみから料金を取り、女性は無料にしているのがとても賢いと思います。

この春のうちに何人かの方とメッセージや電話で仲良くなり、夏休みに日本に戻って会いに行こうと考えていました。

またそのころ前年末に作っておいたホームページを見て、IntelのComputational lithographyのチームが興味があるか電話をかけてきてくれました。

ソフトからハードへのキャリアチェンジは憧れていたので、とてもいいチャンスだと思いました。

2011年2月末のことで、電話での面接を経て、3月にオレゴン州ポートランドのオフィスを面接に訪れることになりました。

そのようにプライベートの充実が少しずつできてきた中で、東日本大震災がありました。

幸いやり取りをしている人の中には被害にあった方はいませんでしたが、面接の数日前の出来事だったので、面接内容だけでなく地震の状況もいろいろと聞かれたのを覚えています。

まだリーマンショックの尾を引く景気の悪いころだったので、オファーをもらえてとてもありがたかったです。

このことで、本来はここから1年半後の2012年半ばの卒業を考えていたのですが、急いで2011年中に卒業することに決めました。

そこから年末まで怒涛の博士論文執筆の毎日が続きます。

またそのころから、今のパートナーとデートをするようになったのもあり、結局その夏休みには日本には戻らず、いまだに独身のままここまで来てしまいました

彼女は結婚をする気がないので、人生というのはちょっとしたタイミングで良くも悪くもずれるものだと思います。

夏休みに泊まりで出かけた際も、自分は彼女を無視してカフェで論文を書いていたと今でも指摘されます。

なんだかんだあの頃は忙しかったけど、前には明るい未来が見えていてとても幸せだった気がします。

2011年のはじまりの台湾の空気

政府に都合の悪い情報は国民には伝えられない

理系アメリカ大学院留学時代を1年目から振り返っています

ここまで4年半を振り返ってきて、この2011年が最後の1年になります。

先学期についに卒業に必要な授業の履修が終わり、残りは博士論文の執筆とTAだけになりました。

これまで休みがあると日本に戻るだけだったので、久しぶりに旅行に行きたくなり、日本に帰ったついでに台湾に旅行に行きました。

日本国内で流通している地図を見ると、中国本土と台湾は同じ色で塗られていたりして、一つの国家として扱われています。

こちらは総務省統計局、つまり日本政府公認の世界地図ですが、台湾と沖縄、台湾とフィリピンの間には国境線がひかれていますが、台湾と中国本土の間には国境はひかれていません。

したがって私はアメリカに行くまで台湾と中国は事実上別の国であるということを知りませんでした。(ChineseやKoreanという言葉は知っていても、Taiwaneseという言葉を聞いたことがなかった。)

しかし実際に台湾に行くと、街中に映画の中でしか見たことなかった青天白日満地紅旗があったり、民国100年とカレンダーに記されているなど、1911年の辛亥革命で誕生した中華民国は滅びたわけではなく実在しているんだなと思って、なんだか不思議世界に迷い込んだようで一人で感慨にふけっていました。

 

Facebookに投稿した当時の日記

Facebookに書いたものなので英語です。

5日くらいで無理やり台湾一周したので表面的に眺めただけですが、近くの国の割にはエキゾチックな感じでいい思い出です。

日本語を話すおじいさんがいたり、道路や地下鉄は右側通行なのに、鉄道は1945年以前の左側通行が今も使われていたり。

特に東側のほうが昔のままで面白かったです。

10年前の話なので、今はだいぶ変わってしまったかもしれません。

日記の内容を見る限り、まだ自分がスマホを持っていなかった頃の話ですね。

今だったら行く前にGoogleストリートビューを見てしまいそうです。

Taiwan 1

January 22, 2011 at 4:11 PM

Every time I have a trip, weather is not good. I left the airport in Taipei, and headed for Taipei station using the MRT, wondering the city is similar to Tokyo.

 

“Ni hao, wo xiang qu Hua lien…?”. I did not know the exact pronunciation of 花蓮, so I wrote ‘花蓮’ on paper. “一个人?”. “Dui.” She explained the type of train, the departure/arrival time, which platform I should go, etc. “ni hui shuo ying yu ma?” I wanted to make sure that my understanding is correct in English. She gestured to say “No way”. “Haha, ok, xiexie!”. I got hyper since this was the first time to use Mandarin to survive, and it seemed to work. I studied Chinese for two years and got the best grade in the class 8 years ago. But I’m always listening real Chinese people’s conversation everyday at Berkeley, so my listening skill should be better than before. Mandarin in Taiwan sounds softer than Chinese one.

 

 

There was still time until the train departures, I walked around Taipei station. Modern buildings are the same as ones of any Asian cities. But the stuff behind of those buildings are different from city to city, Singapore, Kuala Lumpur, Manila, Tokyo.. It is interesting. I got some baozi for breakfast.

It was cheap and good. When I travel to countries far from East Asia, Chinese restaurants always have saved my life; Chinese people live all around the world. It is very nice I do not have to care about food this time.

 

Store staffs do not often smile in Taiwan. At first, I wondered if I am annoying. But once they opened up, they were warm. Taiwanese people are shy?? I felt that people generally try to avoid eye contact. For your information, Japanese people glance.

 

In the train, woman sitting next to me spoke Japanese very well. At first, we had a short conversation in Mandarin. From my accent, she thought I am Chinese. As long as she said, I move my tongue too much and it is not Taiwanese style.

 

I cannot speak Mandarin well or local language, so it was nice she spoke Japanese. She bought me bento, saying it is famous. Xiexie! I think the smell of paigu (排骨) gives a somewhat strange impression for ordinary Japanese, but I am familiar with that after I came to Berkeley. Chinese restaurants have been my lifeline in America as well.

 

She said she studied in japan for 8 years.

 

“My father likes Japan, and sent me to Japan. It was in the 1970s.”

“At that time, freedom was restricted in Taiwan, so people tried to send their kids to America or Japan before they become 15. After they become 15, they could not easily go out of Taiwan.”

“Lots of smart people went out of Taiwan in those days. People think it was Kuomintang’s political failure, but they don’t admit it.”

 

She said with a grin.

 

But, even after Taiwan became democratic, people again decided to support Kuomintang, right?

 

“They do not restrict people just like they used to be and the media can criticize the government now.”

“You know TV reported that Ma Ying-jeou is gay at the end of the year repeatedly? I don’t like that our president is gay.”

 

I don’t know. But It does not matter even if he is gay.

 

“Are you gay?”

 

No. Just I am from San Francisco.

 

“Japanese don’t talk about politics, right?”

 

Ah, maybe. Japanese are not supposed to talk about politics, religion, and favorite baseball teams in public spaces.

 

“Taiwanese are fanatic about politics. The wedding party I attended last time was ruined since a politician, some guests don’t like, was invited. They had a quarrel there.”

 

oh ^^;

 

Her son got married with Japanese woman and he is actually Japanese now. She has a house in Japan and often visits them. That is why her Japanese is very good. But she said her son sometimes points out that her Japanese is somewhat old-fashioned. She does not care about where her son lives but her husband wants his son to come back to Taiwan. Old men may be lonelier than old women. She said overseas Taiwanese are coming back to Taiwan from America these days since health insurance in the U.S. is not good compared to those of Taiwan. I thought that 海外華人 (overseas chinese) do not come back to their home, so I was surprised; I also may not have to think about where to live in my future so seriously.

 

She passed me her phone number and told me to call her if something happens, then we said goodby. Xiexie!

Taiwan 2

January 23, 2011 at 5:28 PM

Hualien is virtually the first city I visited in Taiwan. The city looked similar to that of Japan, except that there are too many motorcycles. People burn incense in front of shops. I like incense; I sometimes go to Chinatown just to get them. Although the downtown of Hualien is far from the station, I walked since watching how people are living is fun. The speed of cars is not adequate for traveling. Each house has a Taoism altar at the front door. Those Taoism altar remind me of 幽幻道士 I liked to watch when I was small.

 

 

I reserved the hotel just before I left Tokyo. Then, after arriving at the downtown, I noticed that I printed a wrong map of the hotel; I could not locate the hotel. Since I knew the address, I asked some local people. But nobody could locate it. The problem was the hotel name and address was written using alphabets. “Chung-Fu Rd. Chung-Fu???” At first, I thought the reason, local people could not locate it, is they could not connect alphabets’ sound and Chinese characters’ pronunciation. So, I tried to pronounce ‘Chung-Fu’ in various accents, but failed (T.T ). Later I found out that the corresponding street name is 中福. It is different from mandarin’s pronunciation (Zhong-fu) or the local pronunciation (Jian-Fu). So where does ‘Chung-Fu’ come from? Hakka?? Anyway, I gave up and got a taxi. Taxi drivers should know any hotels in the city. But he could not locate it either. As seen in the U.S., Chinese hotel, restaurant, etc have English name that is hard to guess from the original Chinese name; only the English name was printed in my voucher. He started driving the taxi. The taxi was heading for the outside of downtown with great speed.

 

 

Um……

 

 

The direction seemed to be wrong. I was really sure that the hotel is in the downtown, so I wanted him to stop, but I do not know how to say “stop” in Mandarin (>_

 

I succeeded to tell him of my feeling. I love Taiwan. I love Asia. The driver called his company and I could talk with a personnel who speaks English over the phone. You should have done it before you started driving… But she could not find the hotel either since the address should not be pronounced as “Chung-Fu” (T_T) I don’t know the correct pronunciation. Then, next, another personnel who speaks Japanese(!) was on the line. Amazing, your company has a person who speaks even Japanese…. But, I know English. It is not a matter of languages.

 

“Do you know the hotel’s phone number? I can call the hotel to locate the address.”

 

 

Ah, You were so smart.

 

 

“OK, I ask the driver directly.” I can say that in Mandarin.

 

“Da dian hua.”

 

His eye gleamed.

 

After he hung up the phone, he made a thumbs-up. He looked like the guy playing guitar in 海角七號. The hotel was at the corner where I got the taxi.

 

 

 

An old man welcomed me at the hotel in a very soft attitude. Although he could not speak English, he spoke Japanese a little bit. Why you can speak Japanese?

 

“日本の教育ね”.

 

He smiled.

 

“停車場からどうやって来たか?”  “半時間以上かかったでしょう?”.

 

It is interesting that his Japanese is old-fashioned. Japanese language before 1945 is preserved inside of this old man.

 

“日本式ね。”

 

 

おお、すげえw

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

The wall was “painted” like fusuma.

 

 

He reserved this Japanese style room for me. This room seems to be special since as long as I checked, other rooms were not like this.

Taiwan 3

January 25, 2011 at 9:23 PM

 

It was getting dark outside. I entered a random eating place by confirming that the menu is listed near-at-hand. I cannot pronounce Chinese characters even if I understand the meaning. So, the only way to order is to point a finger at a name of dish listed on the menu; I cannot order at eating places where the menu is on a high place. Anyways, at the restaurant, I just ordered as the shop corner suggested. He especially pushed miso soup once he knew I am Japanese.

“ミソシルは?” “ミソシルは?” “ミソシルは?”

The amount of food was so large that I thought I could not eat everything on first glance, but they were light taste and easy to eat. Food in Taiwan tastes good as I expected. I am really sure that any restaurants in Taiwan can succeed in Berkeley.

The hotel had a family atmosphere. I did not know how to use the shower in the bathroom, so I went down to the front desk. An elementary school boy, instead of the old man, was at the front desk this time. He could not speak English or Japanese. I had to explain the problem in Mandarin. In this kind of case, if I explain problems in Japanese, it sometimes works in Asia. But shower is shower even in Japanese >_<. I did not know how to tell the problem in Mandarin, but I cannot go to bed without having a shower. After a long interval of silence while smiling each other ^^, only I could say was “qing ni gen wo lai”. Ah, he’s coming. He directly headed for my room and showed me how to do it. Ah you know that strange Japanese was occupying the Japanese-style room. He was firm. When I said xiexie, he got shy and run out of my room. 超Kawaii ^^ He will be a nice guy.

Next morning, when I went down to the front desk, the old man was sleeping in the bed behind the front desk, saying “鍵置いておいて”. “OK, xiexie”. “タイトウに行くか?” “うん、ありがとう”. He started dreaming again.

Dogs are free to walk in this city. Heading for the Hualien station, I was chased by one small dog (Tom) maybe because I kicked dog dirt (<-accident). If I tried to change the side of sidewalk, Tom came with me. When I was in 7-Eleven, Tom was waiting outside.

Umm, apparently, he comes with me.

I don’t like dogs so much.

As I walked some blocks, another dog (Cathy) joined. Ah, increased… I said I don’t like dogs. At first, I thought they were just playing. But later, I found out Cathy was trying to stop Tom.Tom and Cathy in front of Japanese style houses I came across.Tom and Cathy in front of Japanese style houses I came across.

As we walked another several blocks together, another three dogs were approaching to us. It seemed that Tom and Cathy invaded other dogs’ territory. The fight was started there; finally, I could go alone while hearing the dog’s cry backward. I am sorry for damaging the dog society in Taiwan.

日行一善。

日行一善。

Taiwan 4

January 28, 2011 at 11:09 PM

 

Few buildings were around Taitung station as I had heard from the woman I met on the train from Taipei to Hualien. She told me that the old station in Taitung downtown was abolished recently, so the downtown is now far from the station. If I have a chance to come to this city ten years later, the scenery around the new Taitung station will be very different from now.

 

 

The taxi driver had an exotic face and handsome. Once he knew that I am Japanese, he played Japanese song from the list of his favorite music. The title was ‘Powder Snow’. Listening to the song with the theme of winter while surrounded by palm trees; this kind of things often happen if I visit South East Asian countries ^^

 

 

台東 is spelled as Taitung using alphabets, but people pronounced it as Taidong in mandarin manner if I’m correct. And, People in this city pronounced 日本 as ‘Jitpun’ not as ‘Riben’. At first, I wondered why local people use English, saying “Japan”, “Japan”, “Japan….” Then, after a moment, I remember that, in Taiwanese language (台語), the pronunciation should be like that.

 

I entered a random eating place by confirming that the menu is near-at-hand again. When I was thinking what to order, the shop master’s telephone rang.

 

 

“Wei? moshi-moshi?? …. ”

 

 

∑( ̄Д ̄;) なにぃ!!

 

After he hung up the phone. I asked.

 

 

“ni shuo ri yu ma?”

 

“Huh?!”

 

“..ni shuo moshi-moshi….”

 

“… Order!”

 

“Ah, ok…^^”

 

 

I heard wrong? Anyways, the food was again very good.

 

 

Although He had been unamiable while I was eating, after I paid him, he smiled and bowed his head, saying “謝謝你好.” You act so differently ^^; Ah, there are people who bow even in Taiwan. I thought only Korean and Japanese bow his/her head. The girl at a tea shop also bowed. As I told her that I am Japanese, she welcomed me with applause ^^ どうもありがとうございます!

 

 

That night was windy, so I was watching TV after strolling the city for a while. It was interesting there were various programs, discussing bullying in school, Taiwanese aborigines, Hakka people, the relationship with mainland China, anti-Japan movement, etc.

空襲時請到地下室避難。空襲??空襲時請到地下室避難。空襲??

Taiwan 5

February 1, 2011 at 12:52 AM

 

I had to go back to Taipei on the same day. The taxi I took to go back to Taitung station had a previous customer. Although the driver, whose mouth was pure red from biting betel nut ^^, was still serving the customer, he willingly took me to the station. I paid him NT$200 and, at the same time, he promised the previous customer that their pay becomes NT$200 less. That means, even though he could not earn any money by taking me to the station (rather, considering the time and the gas, the opportunity cost must have been more than $200), he took me to the station.  I really appreciate you. The previous customer seemed to be little bit upset, though.. ^^; People in this city were amiable. Boy at hotpot restaurant told me how to eat by gesture with a happy smile once he found out that I am not Taiwanese.

 

 

If I leave Taitung at noon, I can arrive at Taipei around 7pm. Although it was just after I took a meal, I got bento at the station; I had to be on trains for several hours. The girl of the bento shop was so nice. She waved to me three times when I got the bento, when I got up from a bench, and when I passed the entrance gate. I can survive this year because of your smile p(*^-^*)q

 

 

らぶ。らぶ。

 

 

 

 

いい感じ。いい感じ。

 

Kaohsiung. 都会~。Kaohsiung. 都会~。

 

 

While cars and MRTs run on the right, trains run on the left in Taiwan. Why? Naze? Wei shen me?While cars and MRTs run on the right, trains run on the left in Taiwan. Why? Naze? Wei shen me?

 

 

 

 

 

 

 

 

It was already dark when I arrived at Taipei station. But the city was full of life than when I saw the city two days ago during day.

 

 

 

 

High school students hang out at station. I can understand that teens want to do this kind of things.High school students hang out at station. I can understand that teens want to do this kind of things.

 

By the way, what are the boys pushing notebooks or key-holders with an excessive prices around station? Are they targeting foreigners who don’t know prices in Taiwan well? “How much is it?” “$300!” “バカじゃねぇの?” They said they need money for school. But apparently your bag is much more expensive than mine 怒・・・(-_-メ)

 

 

 

“Mister, Preeeez!!!”

 

 

 

sayonara…

 

 

 

You know people even like your age were working at night market. If you need money, you should work. But, at the same time, I could imagine that there are many Japanese women who buy such useless stuffs they sell; the boys looked cute.

 

 

 

 

Many people speak Japanese in Taiwan, especially, in Taipei. If I said something in English, they asked me why I don’t use Japanese. Umm, at least, I do not get used to use Japanese outside of Japan. If I am outside of Japan, English comes out more naturally than Japanese. Still, I felt a little bit awkward that I can communicate with people outside of Japan in Japanese.

 

At the hotel in Taipei, although I do not mind to speak English, girl at the front desk was forced to practice speaking Japanese by her boss.

 

 

 

“あとぉ ミネラルウォタは 冷蔵庫に あります”

 

 

 

Ni de riyu zhen hao a!!!

 

 

 

“…恥ずかしい /////”

 

 

 

萌えた。

 

 

 

 

 

私たちは急かされて生きているから政治に興味を持つ余裕がない

理系アメリカ大学院留学9学期目(2010年秋)

9学期目に履修した科目は以下の2科目。(成績表はこちら

  • CS283: Advanced Computer Graphics Algorithms and Techniques
  • ME220: Precision Manufacturing

先学期の時点で博士論文執筆以外の卒業に必要なことをほぼ終えることができたので、大学を卒業して就職した年以来の新しいことができる時間が持てる夏休みを過ごせました

ここからは研究に集中できるので、ある意味で本当の大学院博士課程の生活を送ることができると少しうれしい気持ちもあったと思います。

卒業後のことも少し考え始めることができて、自分のやってきたことをまとめたホームページを作ったり(archiveに残っていました。懐かしい。)、インターンシップに応募したりし始めました。

なんだかんだ機械工学にいながらやっぱりCGがやりたいなと思っていて、かつBerkeleyの近所だったのでピクサーに応募したりしてみましたが、返事はありませんでした。

シリコンバレーでプログラマとしてスタート地点に立つ方法を考えるで書いたように、おそらくこの時の私のケースは落とされたというよりも、そもそも応募したことを認識してもらえていなかった可能性が高そうです。

学部名がコンピュータサイエンスではないのも微妙でした。

そんなわけで、最後の必修授業としてコンピュータグラフィックスの授業を履修したのは、内容に興味があるのと同時に、先生と仲良くなったら次につながるかなという思いもありました。

またホームページを作るなりして、自分の存在を世間に対して見える形にしていかないといけないのだということも20代後半にしてやっとわかってきました。

履修科目と感想

CS283: Advanced Computer Graphics Algorithms and Techniques

成績はA。

コンピュータグラフィックスの発展コース。(当時のホームページがまだ残っていました。)

内容は知っていることも多かったのでそんなに大変ではなく、そもそも好きだったのでいつも授業に行くのが楽しみでした。

私のYouTubeページに上がっている9年前のビデオはこのときの課題の提出用に作ったものです。(最近プログラムもgithubにうつしたので興味があれば見てみてください。)

ほんの少しのことですが、こういうちょっとしたことでもアップロードしておくと、数年後になんらかのいい出会いのきっかけとなったりするので、不完全なものでも発信することは大事なことだと思います。

いかにあなたがおいしくて格安のレストランを経営していたとしても、看板も何も出ていなければ他の人がそれを知る手段はないわけです。

ME220: Precision Manufacturing

興味はあまりなかったですが、専門であるManufacturingの偉い教授が教えており、博士論文審査の際にはお願いしなくてはならないので、仲良くなるためにPass/Failで受けました。

1年目に受けたME1222年目のME222Bのときと同じ感想で、金属やプラスチック加工のような伝統的な製造技術は大学よりも現場の繰り返しの実験で進歩していくもので、学校で学ぶ価値のあることはあまりない気がします。

自分の卒業後に重鎮の教授たちが引退して、5年位前からコンピュータを使ったシミュレーションにカリキュラムが変わっていたので、既に時代遅れだったのかもしれません。

平成の終わりごろに知性を重視しない昭和の価値観を平成の次の時代には持ち込ませないという記事を書きましたが、コンピュータとインターネットの成熟とともに知性が大きなアドバンテージになる時代に大きく変化してきてました。

目の前のことをこなしていくばかりで考える時間がなかった

実はいまだにそうかもしれません。

当時のmixi日記をはっておきます。

飽きたのか、忙しくなってきたのかあまり書いていません。

喉元過ぎれば熱さを忘れるというように具体的な思い出はあまりないのですが、大学院時代はその後のサラリーマン時代と比べてとても大変だったと記憶しています。

サラリーマンになってしばらくしてから、卒業式で先生と会って近況を聞かれた際に、「大学院時代と比べて楽すぎて毎日バケーションみたいなもの」と答えたのを覚えています。

研究は自分のペースで進めれば本来的にはいいと思いますが、学費や生活費を先生から払ってもらっている以上なんだか常にせかされているような感じがしていました。(ちなみに別にプレッシャーをかけられていたわけではなく、勝手にプレッシャーを感じていただけです。)

サラリーマンは、嫌なら転職というオプションがありますが、学生はそういうわけにもいかないのでなかなか先生との相性がよくないと大変ですね。

日本で奨学金をもらえて留学できた人は本当にラッキーで、もしダメだった場合もTAでお金をもらうことを模索するなど、ある程度先生と距離をとっても生きていけるという状況を作るとよかったのではないかと今振り返って思います。

生きるのめんどくせ。
2010年12月01日18:59
お金のために使う時間をゼロにしたい。
少しわかってきた。
2011年01月22日11:46

自分はずっと働きたくない人だと思っていたけれど、そうじゃなくて雇われたくない、もっと具体的にいうと他の人にコントロールされたくないということだとわかった。

働きたくないって言うと、多くの人には「じゃあ何するわけ?」と聞かれ、それにうまく答えられてこなかったけれど、つまりそういうことだったわけだ。

自分の中ではなんとなく [働く=雇われる] だと思っていたんだね。

だから働きたくないって言うのは、別に何もしないでゴロゴロしていたいというわけではない。

日本社会は、自営業の人がクレジットカードを作れなかったり、つまり [雇われてない=社会的に信用のない人] だから、この辺がいままではっきりしていなかったのかもしれない。

無職のときはマルエツのクレジットカードですら審査通らなかったなw

理研でバイトを始めたら最初から30万の銀行クレジットカードが発行された。

自分自身は何も変わってないのにね。

人に頼らないで力強く生きて生きたいと思います。

文章を書くことが好きでないならば研究者は向いていない

他のことを考えられる余裕ができた理系アメリカ大学院留学4回目の夏休み(2010年夏)

前年の年末にQualifying Examに合格し、先学期が終わった時点で、あと1つだけ授業を取って博士論文を書けば卒業できるという状態まできました。

先学期もあいかわらず論文を書いていて授業は中途半端でしたが、論文はジャーナルに乗せることができたので、なんとなく先生にも最低限恩返しはできた気がしていました。

当時28歳で、20代のうちに日本でずっとやりたかったことがあったので、この夏休みはずっと日本で過ごしていたいと思っていたのですが、先生にかなり渋られました。

そのとき慶應の同窓会であるサンフランシスコ三田会[ref]慶應義塾を卒業する最大のメリットは同窓会の結束がとても強いことです。[/ref]で知り合った友人が、当時発売されたばかりのiPadのアプリを作るので、そのプログラムを書くという名目で雇ってもらうことになり、それを口実に夏休みの最後の1か月だけ日本にいられることになりました。

夏休み3か月のうち、最初の2か月は博士論文の最後のチャプターに相当する部分の理論づくりをしました。

細かいところを除けばこの夏休みに大体できていたような気がしますが、論文の完成は1年半後なのでなかなか進まないものです。

このあたりで研究者の一番大事な仕事は書くことであるということが認識でき、文章を書くことが好きでない自分に向いている職業ではないことがわかってきました[ref]このブログは無理してがんばっています。しゃべるほうが楽ならばそのうちYouTubeにうつるかも。[/ref]。

夏休みの最後の一か月は予定通り日本に戻り、iPadのアプリ開発をやりながら[ref]自分の経験がなさ過ぎて作業量をうまく見積もれず、中途半端なものになってしまい申し訳なかったです。[/ref]やりたかったことも最低限されたのでよかったです。

理想的にはやっぱり丸々3か月日本にいたかったなと思いました。

誰かに給料を払ってもらうという形になっている以上、なかなか体は自由にはならないものです。

当時の自分にアドバイスするとしたら、できるだけ早く種銭をためて自分でベーシックインカムを作ることを人生の早いうちに意識することです。

友人には投資を勧められたりもしていましたが、自分ではまったく調べる力もなく、投資ということがどういうものなのか、このころもその先5年後もわかっていませんでした。(そもそも20代はずっと貯金がゼロだったので、投資を知っても肝心のお金自体がなかったので同じですが。)

今振り返ればこの頃はリーマンショック直後で、全額借金してでもサンフランシスコベイエリアの家を買っていれば、今頃何倍にも値上がりしていましたね。

知らないと損することはたくさんあります

2010年の夏に考えていたこと

最近は野心がなく、年を取ったせいなのかと心配していましたが、当時の日記を振り返ってみて20代のころから自分には野心がなかったことがわかり、少し安心しているこの頃です。

いつも通りこの夏休みに書いていた日記を下に張っておきます。

飽きてきたのか短い日記が多いですが、相変わらず今とあまり考えていることが変わらないです。

ポジティブにとらえれば、変わる必要がなかったので幸せだったといえるかもしれません。

ありえないくらいに
2010年05月17日14:35
最近はさらに運気が上昇している。
運が悪い人分けてあげる。思えば自分は幼稚園の頃が一番暗黒だったな。たぶん自分の幸せの基準は自分の行動を自分で決められるかどうかだと思う。”やること”と”やらないこと”を自分で決めてきた17歳以降には嫌な思い出がない。
幼稚園、小学校、中学校、嫌な思い出いっぱいあるのにね。もう誰にも強制されないし強制させない。子供の頃に戻りたいと言う人もいるけれど、自分は子供の頃には絶対に戻りたくない。たくさんの仲間に出会えて、自分のことを必要としてくれる今は本当にありがたいです。
恥ずかしながら、
2010年05月31日17:25
自分は死ぬまでずっと自分探しの旅を続けてしまう気がします。
“friend”に対応する単語は『友達』ではない
2010年06月12日03:20

たぶん『知り合い』くらいだね。

下手すると『言葉を交わしたことがある人』くらいの意味しかないかもしれない。

日本語の『友達』に対応する単語は、少なくともアメリカの都会の英語にはありません。

なぜならそんなものはここには存在しないから。

あなたは『友達』が1000人いますか?

アメリカには”friend”が1000人いる人は腐るほどにいるよ。

アメリカの人は家族を大切にする?

違うね。

人種を問わずアメリカの人は家族くらいしか信用できないんだよ。

しかもその関係だって、日本人のいう友達関係よりも希薄です。

かわいそう?

そんなことないよ。

だってそれが彼らにとっての”普通”だから。

経験したことがないことは知らないんです。

人間関係に甘えがない。

だから仕事がしやすい。

だからみんなさびしい。

知らないものは知らない。
2010年06月13日01:26

年収20万ドルのアメリカのエンジニアの毎日の夕食はコーンフレーク+牛乳。

共働き世帯年収400万の日本の家庭で毎晩出される超ハイクオリティな夕食。

そのアメリカのエンジニアは日本の家庭の食事風景など想像できない。

その日本の家庭の人はコーンフレークで夕食を済ます人間の存在など想像できない。

愛されたことのない人は愛されるというのはどういうことか知らない。

愛されたことのない人に愛されるというのはどういうことなのか教える力なんてない。

でも知らないものを知らないままでも、”知らないものを知らないということ”を知らないんだから、別にこのままでいい。

We don’t know what we don’t know.
We don’t know that we don’t know what we don’t know.

知らないことは不幸じゃない。

ただ知っている人が知らない人よりもずっと幸せなだけだ。

どこでも仕事が可能になったって言うよりも、
2010年06月14日22:32

どこに行っても自分の生活を一緒に持ち込めるようになったという表現の方が、今の時代をよく表してるのではないかと思います。

働かなければならない限り日本に戻ることは当分なさそうな気がしてきました。

ここにはもう仲間がいっぱいいるし、そしてもう日本で働くのが怖い。

不思議なこと。
2010年06月17日23:54

自分のモチベーションがどこからやってくるのか知りたい。

たぶんお金のためじゃないね。(稼がないと生きていけないけど)
たぶんモテたいからじゃないね。(モテたいけど)
たぶん偉そうにするためじゃないね。(余計なことは言わないこと)

あ、でも”すごいね”って言ってもらいたいのかもw

違うかな??

わからない (‘-‘*)

今日も身近なあなたのためにがんばりますハート

ワールドカップを見てて思ったこと。
2010年06月20日11:50
みんな老けたね ^^;
戦う姿勢を少し出してみようと思った。
2010年07月05日13:01
そんだけ。
貧乏暇なしを地で行ってるな。
2010年07月10日18:19
希望がなかったらもうとっくにあきらめてる。
ここまで暑いならみんな夏休みとればいいんじゃねえの?
2010年07月21日17:37

一年中働いている必要って別にないよね。

美容院に行ったら、”すごく明るいですよね”って言われた。
自分はどう考えても暗い方だと思ってたから意外だった。

たぶん東京は挨拶ができない人が多いからだね。

面倒なことをたくさんやっておけば、
2010年07月23日00:40

それ以上面倒なことには今後出会わない。

だから面倒なことをもう少しだけやることにする。

高等遊民になりたいと願いそして高等遊民になった

理系アメリカ大学院留学8学期目(2010年春)

8学期目に履修した科目は以下の2科目。(成績表はこちら

  • CS149: Introduction to Embedded Systems
  • ME281: Methods of Tensor Calculus and Differential Geometry

先学期末に受けたQualifying Examに合格し、無事Ph.D candidateになりました。

Qualifying Examでは、自分の指導教官以外に4人の先生を審査官として選んで、試験に参加してもらうように頼む必要があります。

コミュ障の自分にとってはそのコミュニケーションをとることが試験そのものよりもずっとハードルが高かったです。

今振り返れば先生たちはみなとても優しかったので、もっといろいろな話ができたらよかったと思っています。

Qualifying Examが終わると月給が手取りで1500ドルに上がったので、生活が少し楽になりました。(渡米当初は赤字だったのでここまでこられてよかったです。)

またQualifying Examに合格すると学費が外国人でもカリフォルニア州民扱いになりだいぶ安くなるので、私の学費を払っている指導教官はうれしそうでした。

とりあえずここまでは学校だけにできるだけ集中していこうと思っていたので、ここからは新しいことも少しチャレンジしたいと思っていました。

それでもまだここから卒業まで2年かかっているので、博士課程はやっぱり長すぎますね。

履修科目と感想

CS149: Introduction to Embedded Systems

Electrical EngineeringとComputer Scienceの両方の学部の学生が参加する組み込み系システムの授業。

自分が大学院で勉強したかったことの一つに、ロボティクスや組み込み系などの、ハードウェアのソフトウェア制御があり、ここで少しできてよかったです。

当時はすでにセグウェイがありましたが、その後ドローンが出てきたりして、この分野もコンピュータビジョンの進化に伴ってこれからさらに大きくなりそうな感じがします。

基本的にはグループワークなのですが、他の学生が言っていることがわからなかった一学期目と異なり、このときはうまくコミュニケーションが取れたのでよかったです。

4年間立てば英語力とコミュ力も多少は上がるようです。

この授業は基本的に学部生のとる授業なので、クラスメートが若く、自分が既に若者ではないということをはじめて自覚した年でした。

この時自分は28歳で、クラスメートは21-22歳くらいだったと思いますが、今思えば28歳も十分若いですね。

それから10年たち今は38歳ですが、10年後を振り返るときっとまだ若かったなと思うはずなので、周りを気にせずやりたいことをやっていこうと思います。

ME281: Methods of Tensor Calculus and Differential Geometry

成績はB+。

微分幾何学のほうに興味がありましたが、ほとんどは純粋なテンソル解析の話だった気がします。

ひたすら数学かつ、それを実際の問題に適用した経験がまだないので、正直授業内容の記憶があまりありません。

先生いわく、毎年『具体例』→『数学を使った抽象化』と『数学を使った抽象化』→『具体例』のどちらの順番で教えるか悩み、それぞれ試すけどいまいちどちらがいいか結論が出ないと言っていました。

自分にとっては『具体例』→『数学を使った抽象化』の順番で説明してくれればもう少しわかりやすかった気がしますが、その年は逆だったので、なんでやっているのかいまいち目的がつかめずとても勉強しずらかったです。

車を作ろうと考えたときに、フランス人はまずタイヤの数をnとして車というものを抽象化し、最後にn=4を代入して車を作るが、ドイツ人は最初から車のタイヤの数は4と決め打ちして作り始めるというジョークを聞いたことがありますが、ドイツ流のやり方のほうが自分に合っている気がします。

意識せずとも自分のなりたい方向に自分の人生は進んでいくようだ

今回も当時のmixi日記をはっておきます。

これまで紹介した当時の日記を見ても、10年前と今と考えていることが変わっていなくて驚きます

願っていた高等遊民になれました。

高等遊民になりたい
2010年04月25日16:29

雇われないで生きていく方向が少しずつ見えてきました。

夏目漱石って作家になる前はどうやって食ってたの?
学校の先生?

大学を卒業したときに欲しかったもの
2010年04月26日13:39

3つの言語が欲しかった。

英語とプログラミングと数学。

やっと揃えられた。

言語はしょせん道具で、それそのものが何かを生み出すわけではないから、なかなか時間を割いて学習するのは面倒だけども、それを知らないことで手に入れられない情報がたくさんあるのがなんとなく嫌だった。

英語はやっぱり特別。

次にやるとしたらマンダリンや広東語だけど、英語を勉強するのとは同じモチベーションにはならないね。でも外国語の勉強は年々簡単になっていっているのでタイミングが合えばそのうち。

バーナナ、バナナ、マーンゴ、マンゴ、バーナナ、バナナ、マーンゴ、マンゴ、ハーイスクール、ハーイスクール♪

中国人の同僚が、なんでバナナとマンゴなの?って、俺に聞かないでください。

それと日本人だってだけでもモテるけれど、中華言語をしゃべれると対中華系はさらに好感度アップです。勉強しといてよかった揺れるハート 香港のベリーショートが似合う子はかわいい。

プログラミングはあんまり自分でしなくなっちゃった。
人に指示してやらせる感じ。でも自分でやった方が早いから、時間があればやるけど。

ここ数年プログラミングに割く時間がもったいないと思ってしまう。
既存のライブラリをできるだけ使う省エネプログラマです。エコだね。

数学は得意だと思ったことはないけれど、だんだん好きになってきた気がする。
今はどんなものでも時間さえかけられれば読めると思う。

大学にいた頃は数学が言語であるということすらわかっていなかった。
数学者は偉大な言語学者。

自然言語、人工言語、データサイエンスなんていってね。
SFCは神。

デザイン言語なんてのも、当時は全然理解できなかったけれど、世の中にあまり知られていないけれどとても大切なコンセプトだといまさら思います。

自分にとってこの10年はその前の10年よりもずっとよかったです。

誤解
2010年04月28日03:52
自分は親からも会社でも先生にも、お前は手を抜いてやっていると指摘されてきたけど、実際のところ、大事なときにいつも以上に力が出るだけで、普段手を抜いているわけではないのです。
お香の香りをかごうと鼻に近づけたら
2010年04月28日16:49

鼻の先端を火傷しましたが何か?

アメリカの事務処理がいい加減だとか、アメリカに住んでいながらアメリカの文句を並べる外国人が度々いますが、サラリーマンをして以来、自分は他人にまったく期待をしなくなったので人に腹を立てたことがありません。

バス路線が変更されたので新しいバス停の位置を確認しようと運転手に尋ねて、

『俺もよくわかんねぇから適当に停まってるwww』

とか答えられても全然なんとも思わない。

寝不足だとネガティブになる
2010年04月30日17:42

なので、ちゃんと寝たい。

でも寝る時間がもったいない。

いや違う、一日を終わらせてしまうには”ものたりない”だった。

間伐
2010年05月02日10:28

高校や学部1,2年生頃にサボってたツケがいま表れている気がする。

でもいろいろなことをやろうと欲張りすぎてるだけかもしれない。

生き残るためには何かを切り捨てていかないとならないときもあるのかな。

さびしいね。

優先順位
2010年05月06日13:36
お勉強>>>>>>>>仕事>音楽>>>友達>>>>>>>>>>>>>彼女>>酒
本当になんでもいいよ
2010年05月10日05:53
どうやって生きていくかとかにこだわりないです。
Stand Alone Complex
2010年05月11日17:23
リーダーを持たない集合体がカリスマ的なリーダーを擁する集団を打ち破る瞬間に遭遇したい。