
大学を首席で卒業したけれど進路は決まっていなかった
大学4年生の最後の春休み、つまり多くの大学生にとって就職前の最後の長い休みの間、自分は研究室で論文を書いていました。
今は知りませんが、慶応大学SFCは当時色物とみられていて、卒業生の多くが進路不明のダメなところというレッテルを週刊誌に張られていたのを覚えています。
卒業式では学部長が、『週刊誌はこんなこと言っているが、それはみんなが進路調査票を提出していないだけ。実際はみんなちゃんと就職しているから大丈夫』といった話をしていました。
それを受けて、『自分は首席なのに進路が決まってないけど(笑』と思ったのを覚えています。
その1年前の3年生の春休みに、当時あこがれていた会社から内定をもらっていたのですが、断っていました。
すでにその時点で2,3年働いたらアメリカに行こうと決めていたので、10年後の自分のビジョンについてという話題が面接の最中に出た際に、10年も働くつもりはないなとなんとなく萎えてしまったからです。
進路は決まっていませんでしたが全然不安はなくて、派遣のプログラマをやればどうにでもなるだろうと思っていました。
いずれにしてもアメリカに行くまでの腰掛です。
まだ終身雇用の空気が強い時代だったこともあり、辞めるのがわかっていて正社員になるのは申し訳ないとも思っていました。
ちなみにこのとき高校生の頃から付き合っていた彼女に振られました。
おそらく自分が就職すれば彼女は結婚できると思っていたのに、それが裏切られたと感じたのではないかと思います。
内定を断った時にも『社会は甘くない!』ってすごく怒っていました。
日本社会はイージーである
論文を3月上旬に提出してから学校はとりあえず終わりと決めました。
それから派遣の登録に行ったり、フリーランスプログラマについて調べ始めました。
その頃指導教官の先生に、OpenGLの知識のある学生を探している企業があるから行ってみたら?と言われたので、面接に行きそのまま就職しました。
最初は契約社員だったのですが、いつでもやめていいから正社員になってと社長に言われたので、3か月後には正社員になりました。
結局その会社の環境はとてもよく、自分の人生の中でも一番技術力がのびた1年でした。
ちなみにこのときがいわゆるホリエモンブームで、時代の変化を感じとても興奮しました。
1年間働いたのちに会社を辞めて、家にこもってアメリカ大学院出願の準備を始めました。
まだ当時の英語力はコミュニティカレッジ(アメリカの短大)に入学が許されるかどうかという低いレベルだったので、TOEFLの勉強からはじめました。
このときは仕事をしていないので収入はゼロです。
先ほどの会社の手取りは月給20万円ほどだったので、ボーナス込みで1年間320万円がトータルの支給額でした。
その320万円でほぼ二年半一人暮らしができたので、日本で生きるのはかなりイージーだということがわかりました。
いまやりたいことをいまやることが幸せである
自分はやりたいことばかりで自分の人生を埋めています。
アメリカ大学院出願準備の時のように、やりたいことを思いついたら会社は辞めます。
そんな感じで、自分の人生には表面的には何もしていないように見える隙間がたくさんあります。
それでも自分に仕事を依頼してくる人は年々増えるばかりです。
もう会社に勤める気はないと伝えても何度も誘われます。
履歴書の空白など誰も気にしないみたいです。
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