2004年末、22歳の頃の話
こちらで書いたような流れで入社した会社を1年後に辞めました。
今やともに東大教授になった学部時代の研究室の先生やポスドクの知り合いがいつでも無償で相談に乗ってくれたので[ref]今思うとすごいことでした。ありがたいです。[/ref]、その会社での1年は学術的・技術的に非常に伸びました。
いずれにしてもその時の直近のゴールはアメリカ大学院の進学で、英語ができなかったのでTOEFLの勉強から始めなければならない状況で、仕事と英語の勉強の両立の難しさを感じていました。
仕事自体はとても楽しかったのですが、終身雇用も年功序列も永遠になくならないだろうと思った当時の予感は今振り返ると正解で、金銭的に報われなさそうなので、とりあえず辞めてしまおうと考えました。
当時も今も私は月10万円で暮らしていけるので、1年働いた後の貯金で次の1年は働かなくても問題ありませんでした。
反省すべきは辞め方が悪かったことです[ref]さらに言うとビジネス的に私は会社に貢献できませんでした。[/ref]。
以前誠実で思いやりがあることはとてもいいことという記事を書きましたが、当時の私はこれが理解できていませんでした。
技術力さえあればなんでもOKだと勘違いしていました。
技術的にはかなり自信を持っていました。
当時の時点で論文の実装はできるようになっていたので、研究者としてならともかく企業の技術者としてはとりあえず動けるレベルだったと思います。
あなたが22歳で入った会社の先輩が全員使えないと思っても、それはまったく勘違いではありません。
おそらくあなたは本当に優れていると思います。
自分自身もなんだかんだこの道20年近くになってしまいましたが、すごい人は20歳でも十分にポテンシャルを見せつけられます。
しかも20歳前後は体も丈夫なのでエネルギーがあります。
シリコンバレーにユートピアを見ていた
シリコンバレーの大企業のようなものがなぜ日本で出てこないかという議論があると、大抵は雇用システムや社会の仕組みが論じられますが、根本的な原因は日本は質のいいエンジニアの層がとても薄いことです[ref]勝手な想像ですが、日本の優れたエンジニアは薄給でゲームプログラマをやっている気がします。[/ref]。
日本国内に限定すると、学術論文を読んでそれを実装できる人はソフトウェアエンジニアという肩書で働く人の1%未満だと思います。
日本のソフトウェア業界において、本来の意味でエンジニアをやっている人はほとんどおらず、大半は実際のところテクニシャンです。
やる前から出来るとわかっているものをマニュアル通りに組み合わせるのはエンジニアリングではありません。
自動車工場の組み立てラインの工員がエンジニアと呼ばれないのと同じです。
日本語という言語障壁があるため、テクニシャンでも十分に高給が取れてしまいます。
もっとレベルの高いところに行かなくてはいけない。
そしてそういうところはアメリカにしかないと思っていました。
その当時の私にとってのユートピアがアメリカでした。
プログラミングは大丈夫。
エンジニアリング数学も何とかがんばればできるだろう(数学の勉強はゆっくりでいい)。
あとは英語を身に着けて、外国人と一緒に働くことができれば最強だと思っていました。
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