人工の概念と自然の概念を区別することの難しさ

1月 5, 2018

『日本人』という言葉には二つの異なった意味がある

『私は日本人です』という言葉には二つの意味があります。

一つは民族的なアイデンティティとしての意味であり、もう一つは日本国籍保持者という意味です。

世界には多重国籍を認めている国も多いことからわかるように、アイデンティティと国籍は別物です。

したがって日本人以外のアイデンティティを持ちながら日本国籍を持つことは問題ありませんし、日本人としてのアイデンティティを持ちながら日本以外の国籍を持つことも問題ありません。

私はこのことにアメリカで働き始めるまで気づくことはできませんでした。

アイデンティティは本来個人的で自然なコンセプトだと思いますが、国籍というものは近代に規定されたとても人工的なコンセプトです。

 

『日本』という言葉にも二つの異なった意味がある

一つは地域としての日本で、もう一つは日本政府です。

故郷としての日本といった場合それは前者を指すはずですが、前者と後者の区別がついていないと、『故郷としての日本のために』というコンセプトと『日本政府のために』というコンセプトを区別することができません。

このことは時には悪用され、『故郷のために』という名目が実は『政府のために』であったりします。

 

自然言語は人工的

プログラミング言語を人工言語と呼ぶのに対し、日本語や英語は自然言語とも呼ばれますが、実はそれら自然言語も人工的なものだと私が気づいたのは大人になってからです。

地方出身の方にとっては、学校で教えられる日本語が人工的だということは早くから気づいているものなのかもしれませんが、私自身も私の両親も東京の山の手で生まれ育ったので、日常使う言葉と学校で習う言葉に大きな違いはなく、私が子供の頃にそれに気づくことはありませんでした。

これに気づいたのは『悲情城市』という台湾の映画を見たのがきっかけです。

 

 

この映画は日本の無条件降伏を伝える玉音放送から始まり、日本から中国国民党へと台湾を支配する政府が移り変わる過程を描いています。日本語や畳の生活が所々に出てくるなど、フィクションとはいえどもとても興味深いです。

この映画の中には、台湾の看護婦が初歩的な北京語を教わっている場面が出てきます。

現在の台湾では北京語こそが学校で教わる言葉であり、日常の共通語としても機能していますが、70年前の台湾ではそうではなかったということをこの場面で描いています。

しかし両親や祖父母すらも北京語の教育を受けて育った現代の台湾人のなかには、北京語以外を知らない台湾人も多く出てきており、そのことが台湾人のアイデンティティに関して問題になってきているという話を台湾人の方から聞いたことがあります。

 

私のしゃべる日本語は人工的な言語

私が母国語としてしゃべる日本語は、国境という人工的な概念でたまたま区切られた地域で教えられている言語です。

歴史にifがあり、もし台湾や朝鮮半島が今でも日本国の一部であったならば、先ほどの北京語以外を知らない台湾人のように、日本語しか知らない台湾や朝鮮半島出身者が当たり前のようにいたに違いありません。

そして彼、彼女たちの国籍は日本なので、それに引きずられるようにアイデンティティも日本人だったかもしれません。

日常的にさりげなく交わす言葉すらも実は人工的なものだと考えると、気づかないうちに私たちは人工的なコンセプトを自然なものと捉えており、かつそれに必要以上に捉われている可能性があります

しかし現在当たり前だと思っている考え方に、時代を超えた普遍性が必ずしもあるわけではありません。

もしあなたが何かの行動を移す際にそれを妨げるような概念があるとしたら、それははたして自然の概念なのか人工的な概念なのかを考えることには意味があると思います。

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